『ダークナイト・ライジング』ベイン考察


 先日公開された、クリストファー・ノーラン監督による“バットマン三部作”もとい“ダークナイト三部作”の完結編となる『ダークナイト・ライジング』

 大傑作であった前作の影響もあり、異様な期待と興奮で迎えられた今作だが、公開後の人々の反応は賛否両論であった気がする。

 私としては純粋に映画としてかなり楽しめたし、三部作の完結を祝福したい気持ちにもなったが、それでも見終わった後、心にいくつかの不満点が残った。しかし、そこには個人的に期待した展開でなかったことに対する不満も含まれているので、とりあえず割愛することにする。

 今回、私が考えてみるのは、今作に登場する宿敵・ベインについてである。原作では肉体派でありながら洗練された頭脳も持ち合わせ、バットマンを一時引退に追い込んだ強敵だ。また、時に共闘することがあったり、オリジンに似通っている部分があったりと、ライバルキャラクターとしての要素も持つ人物である。

 既に一度、実写映画に登場したことがあり、その時は、知性を持たず、命令に従って力任せに暴れるパワーファイターとして描写され、映画そのもののデキも相まって批判された。そんなベインが、徹底してリアル路線を追求するノーラン監督により、今度は三部作の最後にして最強の敵として登場するというのは、興奮ものだ。

 そのような大きな期待通り、今作での彼は本当にかっこよかった。鍛え上げられた肉体、不気味なビジュアル、声、演じるトム・ハーディの技量、すべてが「ただものではない」という印象を与えることに成功していた(少なくとも私にとっては)。

※ここから先は重大なネタバレを含みます。

 が、周りの感想に耳を傾けてみると、今作を最も彩った彼が、同時に、今作に対する最も大きな不満の原因でもあることも確かなようなのである。その例をいくつかまとめてみる。

・ 結局、タリアの手先であり、計画における実行犯にしか過ぎなかった。小物だ。

・ 散々クローズアップされてきた彼の信念がどんなものかと思えば、今どき“愛”か。

・ 死亡時の扱い、死亡後の退場がテキトーすぎる。

だいたいこんな感じだ。

 たしかに、そういう意見がでることには納得できる。私もまた、終盤で真の黒幕がタリア・アル・グール(=ミランダ・テイト)であることが判明し、その後、ベインがあっさりと死んでしまう展開は、心の底から撮り直して欲しいとまで思っている。

 しかしながら「ベインがタリアの手先にしか過ぎなかった」という認識にはちょっと物申したいし、彼の信念が単純に“愛”であるかどうかという点にも自分なりの解釈で説明を付け加えてみたい。

 『ダークナイト・ライジング』におけるベインをもう一度見つめ直し、彼が作中においてどのような存在であったのか、何に生き、何を体現した男だったのかを改めて考え直す。それが、このページの目的である。

1.頭脳犯としてのベイン

 まず、個人的な解釈に基づいた大体的な考察を始める前に先に挙げておきたいのは「ベインはタリアの手先ではない」ということである。二人の関係における細かい考察は、後から詳しく記す。また、各々の持った印象・感想としての「手先」を否定するつもりはない。ここで示したいのは、少なくともベインがタリアの計画・策に従うだけの現場監督であるという見方は、恐らく違うということである。

 根本的な問題として確認したいのは「一連のテロの首謀者はタリアであったが、計画犯がベインではなかったと示す描写は存在しない」ということと、そうである必要がないということである。

 確かに、ミランダ・テイトがバットマン(=ブルース・ウェイン)の味方であると信じていた者にとって、終盤で彼女がラーズ・アル・グールの遺児・タリアとしての本性を表し、中性子爆弾の起爆スイッチを所持していることが明かされる展開は、その瞬間まで真の首謀者とされていたベインを押しのけるほど衝撃的なものであったかもしれない。

 さらに、ブルースがベインの強さの象徴として捉えていた「命綱なしで壁を上り、脱獄する」エピソードが、ベインではなくタリアのものであったことが判明したことも、これまでのベインの存在感をないがしろにすることに一役買っている。

 これらのタリアのインパクトによって、ベインが一気に格下げのイメージを食らってしまったことは否めない。

 ラーズの意志を継いでいたのがタリアであるのならば、黒幕がタリアであることもまた明白であり「ナイフはゆっくり刺した方が……」の発言や、作戦の要であるクリーン・エネルギー原子炉に近づく潜入を自らが担当していることから「ゴッサムに革命を起こし、一時的に腐敗を断つ希望を与えてから破壊する」という一連の筋書きを描いたのも彼女であることはまず間違いないと思われる。

 しかし、だからといってそれを実現化するに至るまでの細かい計画、ましてや現場での策のいちいちまでもタリアが考え、ベインに授けていたとするのは、少々飛躍しすぎではないだろうか? よくよく考えれば、そうであると言及する描写は作中に存在しないはずだ。

 あくまでイメージの問題なのだ。

 頭脳労働と肉体労働の分担というモチーフは、悪役に限らず様々なキャラクター像においてしばしば見受けられるものである。また、新たに真の黒幕が明かされた場合、それまでの敵役は利用されていたに過ぎなかったことが逆説的に証明されるという展開も、往々にして用いられるパターンではある。

 だが、それはあくまでそういうことが多いというだけの話なのである。

 「従うこと」と「肉体労働のみを担当すること」は、本来、切り離して考えられるべきものなのであり、その二つを理由もなしに結びつけて確定するというのは、固定観念に当てはめているに過ぎず、寓話的な記号※のレベルの話でしかない。

 私は、ベインを記号で語るのはかなり危険だと思っている。

 理由の一つは「パワータイプでありながら知能も優れている」というベインの描写・設定そのものが「パワータイプであるものは知能が優れていない」という一種の記号(=パターン)に相反するものであり、そこにさらに「従うものは知能が優れていない」という新たな記号を上乗せすることはナンセンスであるということである。

 もう一つの理由は、ノーラン監督ほど作品に情報量を詰める人間の映画をパターンで語るのは難しいということである。例えばラストシーンでアルフレッドがセリーナを共にしたブルースと邂逅するシーンは、一見「どう見ても」アルフレッドの空想であると一部が受け取ってもおかしくないが、実際には「自動操縦システムの完成」「ネックレスの紛失」「ロビンに渡されたメモ」「バッドシグナルの修繕」などの描写から、ブルースが本当に生きていることがわかる。

 タリアやベインについても、作中外のパターンに当てはめた「どう見ても」という概念(=イメージ、記号、印象)は破壊し、作中の描写・設定のみから予想をすることが無難であると考える。

 描写の範囲でタリアについて明かされたのは「彼女が真の黒幕であったということ」「目的が彼女のものであった」ということのみである。もちろん「目的を持っている」ということは「実現を望んでいる、実現のために思考する」ということであり、そのために首謀者が大まかな筋道を立てるということは自然なことである。

 しかし、その実現までの道筋に立ちはだかる「障壁」「過程」を乗り越えるのは、誰かに授けられたという描写でもない限り、実行している本人の策であるというのもまた自然なことなのである。

 また、ベインは中性子爆弾のメルトダウンまでの期間を「俺の計算では5ヶ月だ」としている。この時点でわざわざ自分から、しかも死が決定しているパヴェル博士に対して虚言を吐く必要性はゼロであり、本当にベインによる計算であることがうかがえる。

 そのような専門技能についても、原作において幅広い知識を有しているのと同様に、特にその背景を描かずとも当たり前のように精通している人物として設定されているのである。

 他にも、資本主義の歴史の本質を的確に突くセンスや、パニックを起こす部下と冷静に対応をするベインとの対比、それに全編における言動の端々において、彼が知性を有したキャラクターであることが幾度も示されている。

 「従うもの=肉体労働のみを担当するもの」というイメージにさえ捕らわれなければ、ベインはやはり一貫して知性派なのである。

 CIAにわざと捕まり、核科学者を拉致して、その死亡を偽装する。証券取引所を襲い、一般人の振りをした味方の乗った車両を配置して警察を阻害する。ダケットのブルース産業乗っ取り計画の下につくと見せかけ、逆に利用する。地下に誘き寄せた警察を生き埋めにし、国家機能を停止させる。

 これらは全て、描写・設定されたベインのキャラクター造形の範疇で可能なものばかりだ。

 もし、ベインが本当にただの実行犯で、全く知性を持たないキャラクターであると記号的に解釈するのならば、墜落の際にテロリスト側の死体が必要なことを確認したのも、トゥーフェイス事件の真相を綴った手紙を手に入れた後に、それを市民の扇動に組み込んだのも、人質を乗せたまま警察の包囲網を突破したのも、ちくいち、タリアの手ほどきを受けてから行ったことということになる。

 ありえるだろうか、そんなことが。

 というより、そんな設定は物語にまったく必要ないのではなかろうか。

 「黒幕はタリアだった。ベインはそれに自身の能力を以てして協力していた」と、このように描写されたものだけをそのまま受け取ることで、きっちりと矛盾なく成り立つというのに「黒幕はタリアだった。つまりベインは従っていた。従っていたということは知能がないということだ。知能を本人が持っているらしき描写もあったが、そちらの方が例外だ」とわざわざ解釈し、「肉体労働」の記号的イメージを優先させる必要が、どこにあるというのか。

 「パワー」と「インテリジェンス」を両方持っている。この特徴こそがベインのヴィランとしての「能力」であり、双方を駆使してタリアの計画を進めていたと考える方が、ごくごく自然ではなかろうか。

 終盤において「タリアの野望」「それを実現するベイン」という真の関係が強いインパクトを残したのは確かだ。だが、それを受けて同時に「考えるタリア」「それに従うだけのベイン」というよくある既存の頻出パターンに当てはまるような印象を持ってしまうことはあっても、持つ必要はないのである。

 さらに付け加えると、ノーラン監督や演じたトム・ハーディなど、作中の外の情報源においても、ベインは頭脳犯・計画犯とされ、同じ頭脳犯であるジョーカーとの差別化についてまで触れられている。

 そこまで細かく定義しておきながら、実は命令通りに動いていただけでした、ということがありえるだろうか。

 もちろん、前述したとおり、ここで私が示したいのはベインが自らの頭脳を以て計画を進めていたということのみであり、それを踏まえても彼をタリアの手先であり小物だと考えるのは、各々の受けた印象であるので否定しようがない。

 だが、次に記す私の個人的な考察を読むと、少しくらいは彼の見方が変わる……かもしれない。

2.三部作におけるベインの役割

 『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』『ダークナイト・ライジング』によって構成されるこの三部作は、ノーラン監督による新たなバットマンの物語として様々な広がりを見せた。その中で最も顕著な特徴が、このトリロジーが常にブルース・ウェインを中心に据えたドラマであるという点である。

 ヴィラン(敵)たちは、ぽっと現れて何の脈絡もなく事件を引き起こすのではなく、ブルースを取り巻く物語の要素としても何らかの役割を与えられている。というより、ストーリーの性質上、自然とそのような形に収まるのである。

 スケアクロウは自身の恐怖を身にまとうという点で、ラーズ・アル・グールは腐敗への対抗策として司法を超えた手段を選んだという点で、ジョーカーは自己実現に社会を巻き込んで既存の在り方を破壊してしまうという点で、トゥーフェイスは同じ理想を掲げて戦ったという点、そして同じ人間を愛し、失ったという点でバットマン(=ブルース・ウェイン)と表裏一体をなしている。

 ブルースは彼らと同じ場所に身を置きながら、彼らとは異なる、自分だけの選択をする。それが話の根っこであり、カタルシスに通じるというわけだ。

 (キャットウーマンはイレギュラーな存在であることそのものが共通点であり、バットマンとしてだけではない「普通の幸せを手にする可能性もあるブルース」も含めて導く役割を持っているので、少々例外である。)

 では、ベインの役割とは何なのだろう。これまで登場したヴィランたちと同じように、ブルースと対比されるものがあるとするのならば、それは一体どのようなものなのだろうか。

 表面的に物語をなぞった場合、終盤までのブルースとベインの対立軸は、ブルースとラーズの間に存在したものとまったく同じであるかのように見受けられる。

 すなわち、同じ司法を超えた存在でありながら、テロリズムによって文明ごと腐敗を焼き払おうとする「影の同盟」と、地道に犯罪と戦う道を選んだ「バットマン」との対比である。

 一見、何の罪もない(彼らに言わせれば皆等しく原罪のようなものを持っているのだろうが)市民をも問答無用で巻き込む「影の同盟」の思想が一方的に明白な悪であるかのようにも感じられるが、ブルースが汚職と組織犯罪で保たれた腐敗の循環を破壊したこともまた禁じ手であり、結果的にジョーカーという怪物を生んでしまっている。

 同じ「犯罪を憎む気持ち」から分岐したこの二つの思想の対立は、三部作全体に一貫した議題であるともいえるだろう。

 そして、今回「影の同盟」の思想を真に継いでいたのは、ベインではなく、タリアであったことが終盤になって明かされる。ということは、実際はブルースとベインの間に対比されるものなど何もなかったということなのだろうか。

 そんなことはない。私はベインとブルースの間で対比されるものは、思想ではないと考える。

 それは「精神力の強さ」だ。

 この世の地獄から来た男ベインは、作中においてその精神力の強さが幾度も強調される。

 前作でジョーカーの本質をブルースよりも先に見抜いたアルフレッドは、彼の「信念に裏付けされた力」に驚嘆する。実際、バットマンは初戦時、ベインに対してまったく歯が立たなかった。これは、戦闘技術の差というよりも、むしろ精神力の差がもたらした結果であるといえる。また『ビギンズ』で語られた「忍術」(=演出や心理効果を狙った攻撃)の類が、ベインの持つ強固な意志の前では完全に意味を持たないのである。

 ベインは熱血漢として描かれているわけではない。いかなる脅しも尋問も一切通用せず、他人や自分の生命すら当たり前のようにその意味をなさない彼の精神性は、とても冷めたものにすら見える。大衆や部下に対しカリスマを発揮するときの振る舞いも、全て演技だ。

 しかし、その無機質さ、まったくぶれることのない心の不動こそが、むしろ彼の奥底にある情熱の表れであるように思う。

 彼の目には常に目的しか映っていない。そこにたどり着くためなら、業火の中だろうが針山の上だろうが表情を変えずに……というのは比喩が強すぎるかもしれないが、それでも的確な足取りで進んでいくだろう。「目的を達成すること」という一点において、非常に特化しているキャラクターなのである。しかも、ジョーカーのように特殊な精神構造を持っているわけではく、目的を最優先するが故に、意識的に生死が無価値なのである。

 ブルースのバットマンとしての信念も、前二作で描かれた通り、生半可なものでは決してない。それでも、このシリーズのブルース・ウェインはまだ精神的な意味での成熟の途上にあり、悩むこともためらうことも一切しないベインのそれとは大きな隔たりがある。

 バットマンとして様々な試練に身を投じてきたブルースは、純粋に心の強さで自分を超えるものに打ち勝てるのだろうか。それが『ダークナイト・ライジング』の脚本的なテーマの一つでもあるのである。

 ここで念を押して確認しておきたいのは、物語に必要とされているのはベインの「信念」であって「思想」ではないという点だ。何が彼をそこまで突き動かすのかはブルースにとってはあまり関係ない。動いた先にあるものを求める気持ちの強さ、それが重要なのだ。

 貧困層の怒りを代表する演説も、影の同盟のテロリズムも、ベインにとっては手段に過ぎず、純粋な彼の思想は実に察しづらい。

 だからこそ目的そのものではなく、目的を実現しようとする「信念」の強さだけが剥き出しになる。

 バットマンの思想と、影の同盟の思想。そのどちらが正しいかという問題はあくまでブルースとアル・グール親子との間に生じるものだ。ブルースとベインの間においては、それぞれの信念に基づいて黙々と何かを推し進める力、純粋にそれだけが対比される。

 ベインの役割とは、ブルースの意志と覚悟を大きく凌駕する精神力を備えた、最後の障壁なのだ。

 そしてブルースとベイン、二人の「黙々と何かを推し進める力」が、何のために存在するのかに目を向けたとき、彼らの間に存在するもう一つの対立構造が浮かび上がってくるのである。

3.「守護」における奉仕と自己犠牲

 『ダークナイト』の壮絶なラストシーンにて、ブルースはこう語る。「ゴッサムのためになら何にでもなる」と。

 この言葉は「バットマン」と「ゴッサム」の関係を最も端的に表している。それは「見返りを求めない奉仕」という姿勢である。

 バットマンは街の良心の象徴でもあるゴードンに常に「礼はいらない」という。

 謝礼や名誉ではなく、ただただゴッサムに真の平和をもたらすために戦うのがバットマンだからだ。

 ブルースはバットマンとして、腐りきったゴッサムシティを救うために自らの人生を捧げ、身を粉にして……いやむしろ盾にして傷ついてきた。

 しかも、それはやがて自分だけが我慢すればいいという範疇のものではなくなっていく。

 一線を越え、汚職と腐敗と組織犯罪のバランスを壊したツケは、やがてジョーカーというもう一人の自分として集積し、愛する者を奪っていく。

 『ビギンズ』において、アルフレッドはブルースの暴走に対し「死人が出ていたかもしれません」と叱責する。これに対しブルースは「レイチェルが死にかけていたから」だと弁解した。

 逆に『ダークナイト』では、レイチェルが殺されてうちひしがれる彼に対し、アルフレッドはこう諭す。「犠牲者がでないとでも思っていたのですか」と。

 いくら「シンボル」や「レジェンド」になろうと試みたところで、この時点でのブルースはまだ、感情で揺れ動く「人間」としての枠から出ることができていない。だからこそ「信念」も定義しきれない曖昧なものであり、そこから生じる様々な矛盾をジョーカーにこれでもかというばかりに徹底的に突かれ、遊ばれた。

 では、曖昧でない「信念」とは何なのか。

 『ビギンズ』においてラーズ・アル・グール(ヘンリー・デュカード)は「鍛錬ではない。重要なのは意志だ」と語る。どれだけ修行を積んだところで、それによって得た力を行使するための「意志」がなければ、それは何の意味も持たない。

 ここでいう「意志」とは目的を達成するための力、突き詰めれば、犠牲や代償を受け入れて、それでもなお冷徹に判断を下すための精神力でもある。この三部作での「信念」とはその場における「意思決定力」と言い換えることができる。

 「目的」を達成するためには、必ず「代償」が存在する。

 レイチェルを失ってようやくそれが身にしみたブルースがとった行動は「ヒーロー」ではなく「ダークナイト」になることであった。

 彼は市民のプライバシーを完全に踏みにじったシステムでジョーカーの居所を探索し、そして最終的にはトゥーフェイスの引き起こした罪を全て自らが被った。

 当初のブルースの信念(ルール)は「司法を無視して犯罪者と戦うが、殺人と銃の使用を禁ずる」という部分以外(むしろそれも含めて)、私情によって度々揺れ動く流動的なものであった。

 それをジョーカーによって論理的に定義されてしまい、ヒーローとヴィジランテの間で板挟みになった彼は「どんな自己犠牲もいとわないし、必要とあれば行き過ぎた秘密主義・一方的な介入ともとれる判断で手も汚す」という自分の位置づけをしっかり確認し、より強い「信念」=より「見返りを求めない奉仕」へとシフトした

 そうでなければジョーカーには勝てなかったからだ。

 バットマンとジョーカーは「社会を自分の思うように変化させたい」がために、法を脱して好き勝手に活動しているという点で、エゴのレベルはまったく同じであるが、バットマンのエゴは私的な感情ではなく「ゴッサムのため」という他者への奉仕が大前提であることが「自己犠牲」という代償をもって証明されたわけである。

 「凄まじいエゴの代償として、全てを被る」。

 同時にこれは彼が「あくまでゴッサムのため」と言い切ってしまえば、自分の中で許されてしまう範囲が拡大したということであり「監視者」(ウォッチメン)になったということでもある。

 エゴの強さや、そこから発生する責任の強さは、むしろ肥大している(そういう意味ではラーズ・アル・グールの思想と差別化しつつも根本は近づいている)。

 では、そんな大きすぎるパワーをブルースがこれ以降扱いきれたかというと、決してそんなことはない。「ダークナイトとしての信念」を手にしたブルースも、未だに「人間」としての領域を出れていないことが『ダークナイト・ライジング』の描写からわかる。彼はバットマンとしてだけではなく「ブルースの人生」としての様々な葛藤に悩まされている。

 そこで重要な意味を持つのが、一切葛藤を見せない男・ベインとの対比である。

 何故なら「代償を認めること」が「強い信念」に繋がるという『ダークナイト』までの世界観に照らし合わせるのならば、ベインの『信念』は常軌を逸しているからである

 ベインの「大事なのは計画だ」という言葉は、ブルースの「ゴッサムのためになら何にでもなる」という言葉と同じく「見返りを求めない奉仕」と「自己犠牲」を宣言するものであるが、ブルースの「何にでもなる」に人間の精神性としての限界があるのに対し、ベインにはそれがない。

 奉仕のための「信念の強さ」「代償の範囲」によって決まるのであれば、その究極は「自らは完全な駒に徹する」「目的達成のみを目的とした化身になる」ということである。

 一人の少女のために、一生抜け出せないかもしれない牢獄の囚人たちを全て敵に回すということであり、その少女がやがて持つ野望が、自分や彼女自身も含めた多くの生命を犠牲にすることになっても、意に介さないということである。

 ドラマとして見ればこの点において、ブルースがベインに勝つことは不可能である。

 『ダークナイト』のラストで描写された「信念」から、さらに人間性を無視し、代償を認め、奉仕のための「目的」に特化した姿・それがベインだからだ

 「ブルースとしての人生」があるバットマンと「マスクをするまで何者でもなかった」ベインでは「目的」が人生の中で占めるウェイトが土台から大違いであり、ベインは手合わせをする前からバットマンを圧倒しているのである。

 では、何故、最終的にバットマンはベインを倒すことができたのか。

 それは『ダークナイト・ライジング』という物語が「行き過ぎた自己犠牲」を否定しているからである。

 このことはブルースが「奈落」に幽閉されていた場面、及びそこから脱出する場面で示される。

 タリアは命綱を使わなかった、つまり「死への恐怖を力にした」からこそ、壁を飛び移ることができた。ブルースもベインに一度敗退を期した後に、その力を手にすることができた。

 ベインにはこれがない。

 強さというのではなく「自己犠牲を究極とした奉仕」という信念の性質上、ベインはどうしてもこの力を持つことができないのだ。

 『ダークナイト』において肯定されたバットマンの秘密主義が『ダークナイト・ライジング』において扇動に利用されるという形である意味否定されたのと同様に「代償の範囲が広いほど強い」という奉仕の「信念」は「奈落」でのエピソードを境に否定され、ブルースはもう一度「信念」のシフトを迫られた。そして、それに成功した。

 その瞬間から、ラーズ・アル・グールに非難され、ジョーカーに痛めつけられ、ベインに圧倒されたブルースの「人間性」は、今度は逆に「強さ」に繋がった

 バットマンには、セリーナと歩み、アルフレッドを喜ばせる「ブルースとしての人生」がある。だから、生に執着することができる。

 一方、ベインにとっては「タリアの守護」のみが人生である。彼女の野望を実現し、愛が叶わなくとも奉仕を優先することのみが人生である。死に恐怖する理由などない。だから負けた。

 レイチェルやロビンが示唆するとおり「バットマン」こそがブルースの素顔であるというのも一つの真実だが、ブルースはそこから己の人生を選ぶことができる。

 ゴードンがあえて最後になるまで名前を訪ねようとしなかった「バットマン」は英雄となるが、その中身を賞賛してくれるものは誰もいない(見返りを求めない奉仕)。だが、ブルース・ウェインはその後の人生を歩むことができる

 けれどベインは「マスクをするまで何者でもなかった」存在であり、奉仕・守護以外の人生は存在しない

 自己犠牲を究極とした信念においてはブルースがベインに勝つことは絶対にできないし、生への執着にシフトした信念においてはベインがブルースに勝つことは絶対にできない。

 二人の相性は、最初から決まっていたのだ。

 もう一つ言えることは、ベインには引き継ぐものがいないかもしれないということだ。

 バットマンがゴッサムの「秩序」匿名の中から代表しているように、ベインも「奈落」に閉じ込められたあの顔の見えない囚人たちの「贖罪」をタリアの守護という形で代表している。

 しかし「バットマン」がマスクを被れば誰にでもなれる存在であり、実際にロビンが引き継ぐのとは違い、「奈落」の囚人たちの中にベインのようにタリアを守ろうとしたものはいなかった。「贖罪」を引き継いだのは、あの医者だけである。

 そして唯一、ベインが「目的の達成」に反して感情が揺れ動き、涙を流した「人間性」、「タリアに生きていて欲しいという思い」を引き継いでくれるものは、誰もいないのである。

続く

思うところがあり、現在、2012年8月にアップした全文を一度修正し、少しずつ再投稿しています。

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